その種付け料はやがて初年度の95倍まで跳ね上がった
1965年にノーザンダンサーが種牡馬生活を開始した時の種付け料は1万ドル、その初産駒が2歳時のセリ市で売却された平均価格が3万8千ドル強だった。8年後の1973年には、種付け料が2万5千ドル、2歳馬のセリ市での平均価格が10万6千ドル強までハネ上がっている。その理由は簡単なこと、つまりノーザンダンサーの初期の産駒たちの成績が優秀だったからだ。
ニジンスキーの活躍
まず初年度産駒からは、3歳時8戦8勝の成績を残してカナダの年度代表馬に選ばれたヴァイスリーガルが出た。そして2年目産駒から、英2000ギニー、英ダービー、英セントレジャーを制し、35年振りにイギリス3冠馬に輝いた超大物ニジンスキーが出る。ニジンスキーの活躍によって、ノーザンダンサーは1970年の英愛リーディングサイアーにも輝いた。
1969年に、カナダからテイラー氏がアメリカに所有するウインドフィールズ牧場メリーランドに移ったノーザンダンサーは、続々と優秀産駒を送り出していく。1977年には、英ダービー、愛ダービー、キングジョージ6世&QエリザベスSなどを制したザミンストレルの大活躍によって、2度目の英愛リーディングサイアーを獲得。
1983年には、愛ダービー馬シャリーフダンサーなどの活躍により、英愛リーディングサイアーに復活。そして4度目にして最後の英愛リーディングサイアーを獲得した1984年は、まさにヨーロッパ中のクラシック戦線にノーザンダンサー旋風が吹き荒れた年となり、エルグランセニョール(英ギニー2000、愛ダービー)、セクレト(英ダービー)、サドラーズウェルズ(愛2000ギニー)、ノーザントリック(仏オークス)と、その直仔たちが次々と大レースを制覇してみせた。
種付け価格も飛躍的に高騰する
1980年代に入り、その種付け価格も飛躍的に高騰し、1985年には95万ドルを記録、シンジゲート株のノミネーションセール(種付け権利のあるシンジケート株を1年だけ売却するセール)では、100万ドルの大台も突破してしまった。
2歳馬のセリ市での平均売却額も1984年に332万ドル強に跳ね上がり、中には1千万ドル(当時のレートで24億強)を越える産駒まで登場した。
余生
授胎率低下のため、1987年の種付けシーズン途中で種牡馬を引退したノーザンダンサーは、その後もメリーランドで余生を送り、1990年に30歳で大往生を遂げる。その遺体はすぐにカナダに運び込まれ、故郷であるウインドフィールズ牧場の敷地内に埋葬された。
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